脳科学はヒトそのものの仕組みを明らかにしようとする学問です。そのため、その成り立ちから人々の耳目(注1)を引くように運命づけられていると言えます。脳科学は、誰もが青春の一 時期に悩む「自分って何だろう」という疑問に科学の力で挑むという、考えてみたら少し青臭い(注 2)学問だったりするのです。
だからというわけではありませんが、人々の口に上りやすく、そのため伝搬のスピードも他の学問と比べて早いように思います。特に、自己(注3)の知覚の裏をかかれるようなさまざまな現象、た とえば錯視現象や無意識と意識の話などは、自己恒常性、つまり自分がいつも自分であり続けるこ とに関わるだけに、他のどんな科学より人々の気持ちを鷲掴(注4)みにします。そのせいで、脳機能 を理解する前に現象だけが先走って人々の間に広がっていくことも多い学問です。もちろん、それ は何より面白いからです。
そんな脳科学も、昨今の説明責任という考え方や社会還元という意味合いで、一般の人々へなん とか知見のフィードバック(注5)をしなければならない圧力にさらされています。少し前には、脳科 学の研究成果が新聞に掲載されることはあまりありませんでしたが、今ではプレスリリース(注6)も 当たり前に行われますし、そこではできるだけ面白く人々の興味をひきつけるストーリーを作りが ちになります。本当は
そういう色気は基礎科学に馴染まないのですが、メディアからの要請がある と、僕たちはなんとかそれに応えようとして、浅薄な脚色をして本当の面白さをゆがめてしまいが ちになります。
そういう「メディア対応」と呼ばれる技術も科学者に必要とされている現代は、ある意味で科学 者にとって不幸な時代なのかもしれません。
(中略)
昨今の過剰なメディアの脳科学の取り上げ方は、科学者の説明責任を遥かに逸脱したレベルであるように思えるのです。そういうメディアの要求に、誠実に対応しようとすればするほど、科学者 は自分をすり減らすことになるでしょうし、だんだんと科学の現場から乖離せざるを得なくなるで しよう。それは、優秀な科学者を潰すことになります。
科学者の価値は、何よりも科学の現場に居続けることにあります。科学的知見に裏打ちされない (注7)空論を弄ぶのではなく、常に研究の現場に自分をつなぎ止め、足を杭で打ち付けてでも科学 の現実から離れないようにすること。そういう決意をもってメディアに対応するのであれば、フワ フワと遠くに行ってしまうことはないでしょう。
(注1)耳目を引く:注意を引く
(注2)青臭い:ここでは、純粋すぎる
(注3)自己の知覚の裏をかかれる:ここでは、自分が思いもしなかった
(注4)鷲掴みにする:ここでは、強く掴む
(注5)フィードバッ:還元
(注6)プレスリリース:メディア向けの公式発表
(注7)〜に裏打ちされる:〜に裏づけられる
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